| Tweet 「アイヌ神話・民話体系」全60話 第13話 湖の底の鏡の国https://ganta.sa-suke.com/1013.html | |
Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話) 第1話 風のカムイが最初に歌った日 第2話 大地を抱くクマのカムイ 第3話 川の女神トゥラノの涙 第4話 火のカムイと雪のカムイの争い 第5話 海霧を運ぶシャチの精霊 第6話 森の影を食べるフクロウの伝承 第7話 山の心臓が鳴る夜 第8話 雷のカムイが子を授ける話 第9話 霧の中で迷う鹿の魂 第10話 星を拾った少年 第11話 氷の裂け目に住む古い神 第12話 風を縫う少女と草原の歌 第13話 湖の底の鏡の国 第14話 木の根が語る千年前の記憶 第15話 太陽を背負ったカラスの旅 Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)第16話 最初のアットゥシ織り Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)第31話 森を歩く影の鹿角
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第13話 湖の底の鏡の国 世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、川の女神トゥラノが涙で森を癒し、海のシャチの精霊が霧を運び、影を食べるフクロウが森の均衡を整え、山の心臓が静かに脈打ち、雷のカムイが空を駆け、風を縫う少女が草原に歌を残したころ。 その森の北側には、ひっそりとした湖があった。 湖は深く、静かで、風が吹いても波が立たない。 村人たちはその湖を トゥイ・トゥイ・トゥ――「鏡の湖」と呼んでいた。 湖面はいつも鏡のように澄み、空も森も人の顔も、すべてをありのままに映し出した。 しかし、村人たちは決して湖の中央へ近づかなかった。 なぜなら、湖の底には 鏡の国 があると伝えられていたからだ。 そこは、現実の世界とそっくりだが、 すべてが逆さまに映る不思議な国。 そして、鏡の国に迷い込んだ者は、二度と戻れないと言われていた。 ■ 湖に魅入られた少年村には、湖を愛する少年がいた。 名を カナ・ポロ という。 カナ・ポロは幼いころから湖に魅せられ、 毎日のように湖のほとりに座っては、 湖面に映る空や森を眺めていた。 ある夕暮れ、湖面が金色に染まるころ、 カナ・ポロは湖に映る自分の姿を見つめていた。 そのとき―― 湖面の中の自分が、ほんのわずかに遅れて動いた。 「……え?」 カナ・ポロは目をこすった。 しかし、湖面の中の自分は、また遅れて動いた。 まるで、鏡の中の自分が別の意思を持っているかのように。 その瞬間、湖面が揺れ、 水の中から白い手が伸びてきた。 「……おいで……」 カナ・ポロは驚き、後ずさった。 しかし、湖面の中の自分―― 鏡のカナ・ポロ は微笑んでいた。 「こっちへ……おいで…… 鏡の国で……遊ぼう……」 その声は、カナ・ポロ自身の声だった。 ■ 湖の女神の警告そのとき、湖の水が揺れ、 水面からひとりの女神が現れた。 川の女神トゥラノだった。 「カナ・ポロ、湖から離れなさい!」 トゥラノは水を巻き上げ、鏡の手を払いのけた。 「鏡の国は危険です。 あなたの魂を奪われてしまいます」 カナ・ポロは震えながら言った。 「トゥラノさま…… ぼくの“鏡のぼく”が……呼んでいました……」 トゥラノは悲しげに首を振った。 「鏡の国は、あなたの影と心を映す場所。 あなたの“もうひとりの自分”が生まれるのです。 しかし、それはあなたではありません。 あなたを鏡の底へ引きずり込む影です」 カナ・ポロは唇を噛んだ。 「でも……ぼくは湖が好きなんです。 湖の底に何があるのか、知りたいんです」 トゥラノはしばらく黙り、 やがて静かに言った。 「ならば、わたしがあなたを守りましょう。 鏡の国へ行くのは危険ですが…… あなたの心が強ければ、戻ってこられるかもしれません」 カナ・ポロは決意した。 「行きます。 鏡の国を見てみたい」 ■ 湖の底へトゥラノは湖面を開き、 カナ・ポロを水の中へ導いた。 湖の中は静かで、冷たく、 光がゆらゆらと揺れていた。 やがて、湖の底に光る膜が見えた。 「ここが……鏡の国の入口……」 トゥラノは言った。 「気をつけなさい。 鏡の国では、すべてが逆さま。 あなたの心が弱れば、鏡の影に飲まれます」 カナ・ポロは深く息を吸い、 光の膜をくぐった。 ■ 鏡の国そこは、奇妙な世界だった。 空は湖のように揺れ、 地面は空のように広がり、 木々は逆さまに生え、 水は空へ向かって流れていた。 そして―― カナ・ポロの前に、鏡の自分が立っていた。 「ようこそ……鏡の国へ……」 鏡のカナ・ポロは微笑んだ。 しかし、その笑顔はどこか冷たかった。 「ここでは、ぼくが“本物”なんだ。 君は“影”だよ。 だから……君は帰れない」 カナ・ポロは震えた。 「ぼくは……ぼくは本物だ!」 鏡のカナ・ポロは笑った。 「じゃあ、証明してみせてよ。 君の心が本物だって」 ■ 心の試練鏡の国では、カナ・ポロの心が試された。 恐怖が影となって襲い、 迷いが霧となって道を塞ぎ、 悲しみが水となって足を取った。 カナ・ポロは何度も倒れそうになった。 しかし、彼は思い出した。 ――湖が好きだ。 ――森が好きだ。 ――村が好きだ。 ――生きている世界が好きだ。 その思いが胸に灯り、 影を払い、 霧を裂き、 水を蒸発させた。 鏡のカナ・ポロは驚いた。 「どうして…… どうして影に飲まれない……?」 カナ・ポロは言った。 「ぼくは影じゃない。 ぼくは“ぼく”だ。 湖の上で生きている、ただの少年だ!」 その瞬間、鏡の国が揺れた。 鏡のカナ・ポロはひび割れ、 光となって消えていった。 ■ 湖への帰還カナ・ポロは光の膜をくぐり、 湖の底から戻ってきた。 トゥラノが微笑んだ。 「よく戻りました。 あなたの心は強かった。 鏡の影に飲まれなかったのは、 あなたが自分を信じたからです」 カナ・ポロは湖面を見つめた。 湖は静かに揺れ、 彼の姿をありのままに映していた。 「ありがとう、トゥラノさま。 ぼくはもう、鏡の国に迷いません」 ■ その後の世界村人たちはカナ・ポロの話に驚き、 湖を恐れるだけでなく、 敬うようになった。 そして、湖が静かに光る夜には、 人々はこう言う。 「あれは、鏡の国が眠っている証だ」 湖は今日も静かに世界を映し、 その底には、誰も知らない鏡の国が ひっそりと息をしている。 |