「アイヌ神話・民話体系」全60話 第34話 影を渡る黒い舟https://ganta.sa-suke.com/1034.html

Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話)

第1話 風のカムイが最初に歌った日
第2話 大地を抱くクマのカムイ
第3話 川の女神トゥラノの涙
第4話 
火のカムイと雪のカムイの争い
第5話 海霧を運ぶシャチの精霊
第6話 森の影を食べるフクロウの伝承
第7話 山の心臓が鳴る夜
第8話 雷のカムイが子を授ける話
第9話 霧の中で迷う鹿の魂
第10話 星を拾った少年
第11話 氷の裂け目に住む古い神
第12話 風を縫う少女と草原の歌
第13話 湖の底の鏡の国
第14話 木の根が語る千年前の記憶
第15話 太陽を背負ったカラスの旅

Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)

第16話 最初のアットゥシ織り
第17話 狩人と弓の精霊の契約
第18話 鮭を呼ぶ歌の誕生
第19話 村を救った薬草の物語
第20話 海を渡る影の船
第21話 風の穴に落ちた少年
第22話 火の鳥が落とした赤い羽
第23話 熊送りの儀式が生まれた日
第24話 星を喰べた山の巨人
第25話 霧の森で笑う子どもたち
第26話 夜明けを運ぶ白い狼
第27話 影を縫う蜘蛛の巣
第28話 風の骨を拾う少年
第29話 月影を抱く黒鹿の旅
第30話 海底に沈んだ風の鈴

Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)

第31話 森を歩く影の鹿角
第32話 雪を食べる白い影
第33話 風を忘れた山の梟
第34話 影を渡る黒い舟
第35話 星明かりを飲む黒い鳥
第36話 夜の川を渡る赤い魚
第37話 影を食べる黒い霧
第38話 風の底で眠る青い石
第39話 最後の戦いと雪嵐の夜
第40話 霧の海で歌う青い鯨
第41話 影の森で眠る黒い花
第42話 星の底で笑う赤い面
第43話 風の声を盗む黒い羽
第44話 雪の底で笑う白い面
第45話 夜明けを盗む黒い狼
第46話 影の海で眠る青い面
第47話 風の森で泣く白い鳥
第48話 月の森で歌う黒い鹿
第49話 影の谷で眠る赤い狐
第50話 風の底で歌う白い面

Ⅳ 星・海・影・雪・風 「鳥・鯨・狐・面・鹿」(51〜60話)

第51話 星の森で眠る青い鳥
第52話 海の底で笑う黒い鯨
第53話 影の森で歌う白い狐
第54話 雪の森で眠る黒い面
第55話 風の影で笑う青い狐
第56話 月の底で眠る白い鳥
第57話 影の底で笑う黒い鳥
第58話 風の森で眠る赤い鳥
第59話 星の底で笑う白い狐
第60話 雪の底で歌う黒い鹿

第34話 影を渡る黒い舟

世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、火の鳥が赤い羽を広げ、白い狼が夜明けを運び、黒鹿が月影を抱いて旅をし、雪の子が冬を取り戻し、山の梟が風を思い出したころ。  その夜の海に、ひとつの黒い影が浮かんでいた。

黒い舟――カゲ・フネ。

それは、かつて夜の海を渡り、  迷った魂を導いた「影の舟」の兄弟とも言われる存在だった。

しかし、この黒い舟は違っていた。

舟は影をまとい、  波に触れても音を立てず、  月の光を吸い込み、  海の底の闇を引きずっていた。

そして、海の者たちは囁いた。

「黒い舟が影を渡っている」  「舟が影を運んでいるのではない。   影が舟を運んでいるのだ」  「近づけば、影に飲まれる」

海のシャチの精霊レタラ・レプンは、  その噂を聞いて胸をざわつかせた。

「影の舟が……乱れている。   これは、ただの影ではない。   “迷った影” が舟を動かしている」

■ 影を追う少年

海辺の村に、  影の気配を読むことができる少年がいた。

名を カゲト・シモ。  影の揺れ、影の重さ、影の声を感じ取ることができた。

ある夜、少年は海辺で黒い舟を見た。

舟は波間を滑り、  影を引きずり、  まるで誰かを探しているようだった。

少年は呟いた。

「……あの舟、泣いている……   影が迷っている……」

そのとき、舟の影が揺れ、  少年の足元に影の波が寄せた。

「……たすけて……   わたしは……帰れない……   影の舟に……囚われた……」

少年は息を呑んだ。

「舟の中に……誰かいる……?」

■ 黒い舟の正体

レタラ・レプンが海面を割って現れた。

「カゲト・シモよ、   黒い舟に近づいてはならぬ。   あれは“影の迷い” が形を取ったものだ」

少年は尋ねた。

「影の迷い……?」

レタラ・レプンは静かに言った。

「影は心の形。   心が迷えば、影も迷う。   迷った影が集まると、   舟の形を作り、   海をさまようのだ」

少年は影の波を見つめた。

「じゃあ、舟の中にいるのは……   迷った影……?」

「そうだ。   影は帰りたがっている。   だが、影だけでは帰れぬ。   “心” が必要なのだ」

少年は胸に手を当てた。

「ぼくが……影を帰すよ」

レタラ・レプンは驚いた。

「影に触れれば、おまえの影も迷うぞ」

少年は首を振った。

「ぼくは影が好きだ。  影は怖くない。  影は心の友だよ」

■ 黒い舟へ乗り込む

少年は黒い舟へ近づき、  影の波を踏んで舟に乗り込んだ。

舟の中は暗く、  影が揺れ、  冷たい風が吹いていた。

舟の奥から声がした。

「……ここは……どこ……   わたしは……誰……   帰りたい……   でも……帰れない……」

そこには、  白い影のような少女が座っていた。

少女は自分の影を失い、  影だけが舟に囚われていた。

少年は言った。

「君は……影だけになってしまったんだね」

影の少女は震えた。

「……わたしは……   自分を嫌いになった……   心が揺れて……   影が迷って……   舟に飲まれた……」

少年は優しく言った。

「影は君を嫌っていないよ。   影は君の一部だ。   君が帰りたいなら、影も帰りたいんだ」

■ 影の試練

黒い舟が揺れ、  影の波が少年に襲いかかった。

「……おまえも迷え……   影は心を喰う……   迷った心は……影の餌……」

少年は影に飲まれそうになった。

――ぼくも迷うかもしれない。  ――影に飲まれるかもしれない。

しかし、少年は影に向かって叫んだ。

「ぼくは迷わない!   影は怖くない!   影は心の形だ!   心を信じれば、影は道になる!」

その瞬間、  影の波が静まり、  黒い舟が止まった。

影の少女は少年を見つめた。

「……あなたの心……   あたたかい……   わたしの影が……帰りたがっている……」

■ 影の帰還

少年は少女の手を取り、  影の舟の縁へ導いた。

「帰ろう。   君の影は、君のところへ帰りたいんだ」

少女の影が光を帯び、  白い霧が晴れ、  影が少女の体へ戻っていった。

少女は涙をこぼした。

「……帰れた……   わたし……帰れた……」

黒い舟は静かに崩れ、  影の霧となって海へ溶けていった。

レタラ・レプンが言った。

「迷った影は、心が導けば帰れる。   おまえの心が、影を救ったのだ」

■ その後の世界

影の少女は村へ戻り、  影はしっかりと地面に落ちていた。

村人たちは驚いた。

「黒い舟が消えた……」  「影が帰ったのだ……」  「影を救ったのは、あの少年だ」

カゲト・シモは海を見つめて言った。

「影は迷うことがある。   でも、心があれば帰れるんだ」

そして、夜の海に黒い影が揺れると、  人々はこう言うようになった。

「あれは、影を渡る黒い舟が  迷った影を探しているのだ」

黒い舟は今日も静かに影を渡り、  迷った影をそっと導いている。