| Tweet 「アイヌ神話・民話体系」全60話 第60話 雪の底で歌う黒い鹿https://ganta.sa-suke.com/1060.html | |
Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話) 第1話 風のカムイが最初に歌った日 第2話 大地を抱くクマのカムイ 第3話 川の女神トゥラノの涙 第4話 火のカムイと雪のカムイの争い 第5話 海霧を運ぶシャチの精霊 第6話 森の影を食べるフクロウの伝承 第7話 山の心臓が鳴る夜 第8話 雷のカムイが子を授ける話 第9話 霧の中で迷う鹿の魂 第10話 星を拾った少年 第11話 氷の裂け目に住む古い神 第12話 風を縫う少女と草原の歌 第13話 湖の底の鏡の国 第14話 木の根が語る千年前の記憶 第15話 太陽を背負ったカラスの旅 Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)第16話 最初のアットゥシ織り Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)第31話 森を歩く影の鹿角
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第60話 雪の底で歌う黒い鹿 世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、火の鳥が赤い羽を広げ、白い狼が夜明けを運び、星の底で笑う白い狐が孤独を光に返したころ。 その冬、雪原はいつもより静かで、深く、重かった。 雪が沈んでいた。 降り積もるのではなく、 舞い落ちるのでもなく、 雪そのものが、地の底へ沈んでいくようだった。 村人たちは囁いた。 「雪の底に“黒い鹿”が現れた」 「鹿が歌うと、雪が沈む」 「雪の心が凍りついている」 その噂は、 雪の気配を読む少年 ユキト・シモ の耳にも届いた。 少年は雪原に立ち、 沈む雪の気配を感じ取った。 「……雪が泣いてる…… でも、歌ってる…… 雪の底で、黒い鹿が……」 ■ 雪の底へ向かう雪の森を抜け、 凍った川を渡り、 少年は雪の揺れを辿った。 やがて、雪原の中心に 白い裂け目が現れた。 そこが―― 雪の底(ユキ・シタ) への入口だった。 少年は深呼吸し、 雪の裂け目へ飛び込んだ。 雪の底は、 白と黒が混ざり合う静かな世界だった。 雪の涙が凍りつき、 雪の影が漂い、 雪の歌が遠くで響いていた。 その中心に―― 黒い鹿 がいた。 鹿は雪の影をまとい、 瞳は深い闇を映し、 角は凍った光を揺らしていた。 鹿は歌っていた。 「……ホォ……ホォォ……」 その歌は、 雪の心を震わせるような深い響きだった。 ■ 黒い鹿の声少年は震えながら言った。 「あなたが……雪を沈めているの?」 黒い鹿は静かに答えた。 「……わたしは……雪の底…… 雪の涙…… 雪の孤独…… 雪の恐れ…… そのすべてが積もり…… わたしとなった……」 少年は息を呑んだ。 「雪の……心……?」 鹿はゆっくりと首を上げた。 「……雪は……消える…… 春が来れば……溶ける…… 誰も……雪の心を見ない…… だから……雪は沈む…… 沈めば……消えずにすむ…… 沈めば……忘れられずにすむ……」 少年は胸が痛くなった。 「雪は……忘れられないよ。 雪は冬を作るんだ。 雪があるから、世界は巡るんだよ」 ■ 雪の心の沈みそのとき、雪の底が揺れた。 白い霧が渦を巻き、 黒い鹿を包み込んだ。 「……雪は……弱い…… 光に溶け…… 風に消え…… 春に忘れられる…… だから……沈む…… 沈めば……痛みを感じずにすむ……」 少年は雪に飲まれそうになりながら叫んだ。 「雪は弱くない! 雪は世界を包むんだ! 雪があるから、冬は美しいんだよ!」 黒い鹿は揺れた。 「……美しい……? わたしは……消えるだけの存在では……ない……?」 ■ 雪の試練黒い鹿は少年に近づいた。 「……おまえも……沈んでいる…… 心の奥で…… 誰にも言えぬ痛みを…… その痛みを……わたしに寄こせ…… わたしは……痛みを喰う……」 少年は震えた。 ――ぼくは沈んでいるのか。 ――雪の底を癒せるのか。 ――黒い鹿に飲まれずにいられるのか。 そのとき、 雪の森で眠った黒い面の声が 少年の心に響いた。 「雪は巡る。 消えるのではなく、旅をする。」 少年は深く息を吸い、 黒い鹿に向かって叫んだ。 「雪は消えない! 雪は巡るんだ! 冬が終わっても、 また冬が来る! 雪は世界の旅人だよ!」 黒い鹿は震えた。 「……雪は……巡る……?」 ■ 黒い鹿の浄化少年の言葉が雪の底に響き、 黒い鹿は光を帯び始めた。 「……あたたかい…… これは……雪の心……?」 雪の渦が静まり、 黒い鹿はゆっくりと角を下げた。 「……わたしは…… 沈む影ではなく…… 巡る雪の心…… 光とともに……ある……」 黒い鹿は光に包まれ、 雪の霧となって消えていった。 雪の底は静かになり、 雪は穏やかに舞い始めた。 ■ 雪の帰還少年が地上へ戻ると、 雪原は白く輝き、 風は澄み、 冬は静かに息を吹き返していた。 雪の精霊エトゥン・ユクが現れ、 少年に言った。 「おまえの心が、雪の沈みを癒した。 雪は巡る。 それを思い出したのだ」 少年は空を見上げた。 「雪……おかえり」 雪は優しく舞い、 少年の肩に落ちた。 ■ その後の世界それ以来、 雪がひときわ静かに降る夜には、 人々はこう言うようになった。 「あれは、雪の底で歌っていた黒い鹿が 沈んだ心を光に返した証だ」 雪は今日も静かに降り、 季節を巡る旅を続けている。 |