「アイヌ神話・民話体系」全60話 第29話 月影を抱く黒鹿の旅https://ganta.sa-suke.com/1029.html

Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話)

第1話 風のカムイが最初に歌った日
第2話 大地を抱くクマのカムイ
第3話 川の女神トゥラノの涙
第4話 
火のカムイと雪のカムイの争い
第5話 海霧を運ぶシャチの精霊
第6話 森の影を食べるフクロウの伝承
第7話 山の心臓が鳴る夜
第8話 雷のカムイが子を授ける話
第9話 霧の中で迷う鹿の魂
第10話 星を拾った少年
第11話 氷の裂け目に住む古い神
第12話 風を縫う少女と草原の歌
第13話 湖の底の鏡の国
第14話 木の根が語る千年前の記憶
第15話 太陽を背負ったカラスの旅

Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)

第16話 最初のアットゥシ織り
第17話 狩人と弓の精霊の契約
第18話 鮭を呼ぶ歌の誕生
第19話 村を救った薬草の物語
第20話 海を渡る影の船
第21話 風の穴に落ちた少年
第22話 火の鳥が落とした赤い羽
第23話 熊送りの儀式が生まれた日
第24話 星を喰べた山の巨人
第25話 霧の森で笑う子どもたち
第26話 夜明けを運ぶ白い狼
第27話 影を縫う蜘蛛の巣
第28話 風の骨を拾う少年
第29話 月影を抱く黒鹿の旅
第30話 海底に沈んだ風の鈴

Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)

第31話 森を歩く影の鹿角
第32話 雪を食べる白い影
第33話 風を忘れた山の梟
第34話 影を渡る黒い舟
第35話 星明かりを飲む黒い鳥
第36話 夜の川を渡る赤い魚
第37話 影を食べる黒い霧
第38話 風の底で眠る青い石
第39話 最後の戦いと雪嵐の夜
第40話 霧の海で歌う青い鯨
第41話 影の森で眠る黒い花
第42話 星の底で笑う赤い面
第43話 風の声を盗む黒い羽
第44話 雪の底で笑う白い面
第45話 夜明けを盗む黒い狼
第46話 影の海で眠る青い面
第47話 風の森で泣く白い鳥
第48話 月の森で歌う黒い鹿
第49話 影の谷で眠る赤い狐
第50話 風の底で歌う白い面

Ⅳ 星・海・影・雪・風 「鳥・鯨・狐・面・鹿」(51〜60話)

第51話 星の森で眠る青い鳥
第52話 海の底で笑う黒い鯨
第53話 影の森で歌う白い狐
第54話 雪の森で眠る黒い面
第55話 風の影で笑う青い狐
第56話 月の底で眠る白い鳥
第57話 影の底で笑う黒い鳥
第58話 風の森で眠る赤い鳥
第59話 星の底で笑う白い狐
第60話 雪の底で歌う黒い鹿

第29話 月影を抱く黒鹿の旅

世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、火の鳥が赤い羽を広げ、白い狼が夜明けを運び、影を縫う蜘蛛が心を整え、風の骨を拾った少年が風を救ったころ。  その夜、月はひときわ大きく輝いていた。

しかし、月の光はどこか弱く、  夜の森には不安な影が揺れていた。

風のカムイ・レラは空を見上げて言った。

「月の光が……揺れている。   月影が乱れているのだ」

そのとき、森の奥から静かな足音が響いた。

黒鹿――クル・ユク が姿を現した。

黒い毛並みは夜の闇のように深く、  その角は月影を宿すように淡く光っていた。

黒鹿は、月影を運ぶ者。  月の光が地上に落ちるとき、  その影を整える役目を持つ古いカムイだった。

しかし、その黒鹿の体は弱っていた。

■ 月影を失った黒鹿

レラ・カムイは黒鹿に近づいた。

「クル・ユクよ、どうしたのだ。   おまえの角の光が弱い」

黒鹿は苦しげに言った。

「……月影が……奪われた……   わたしの角に宿るはずの影が……   “月影の盗人” に奪われた……   このままでは……月が沈む……」

レラ・カムイは驚いた。

「月が沈む……?」

黒鹿は頷いた。

「月影がなければ、月は形を保てぬ。   影が光を支えているのだ。   影を失えば、月は崩れ落ちる……」

その言葉に、森の動物たちは震えた。

「月が落ちたら、夜が壊れる」  「潮も乱れ、影も迷う」  「世界が夜の底に沈む」

黒鹿は静かに言った。

「月影を取り戻す旅に出る。   だが、わたしひとりでは……   影の道を越えられぬ……」

■ 月影を追う少女

そのとき、ひとりの少女が現れた。

名を ツキ・メノコ。  月の光を愛し、  毎夜、月に祈りを捧げる少女だった。

ツキ・メノコは黒鹿に言った。

「わたしも行きます。   月が沈むなんて、耐えられない。   月はわたしの友だもの」

黒鹿は少女を見つめた。

「月影の旅は危険だ。   影が心を試す。   おまえの心が揺れれば、影に飲まれる」

ツキ・メノコは胸を張った。

「わたしは月を信じています。   だから、影にも負けません」

レクン・カムイ――影の狐が現れた。

「影の道はわたしが読む。   月影の盗人は、影を喰う者。   影を知る者が必要だ」

こうして、  黒鹿と少女、影の狐の旅が始まった。

■ 月影の盗人を追って

月影の盗人は、  夜の底に住む影の亡霊だった。

名を ツキカゲ・ホロ。  月影を喰らい、  月の光を奪う存在。

黒鹿は月影の気配を追い、  少女と狐はその後を追った。

森を抜け、  川を渡り、  山を越え、  やがて、夜の底へ続く裂け目にたどり着いた。

そこは光が届かず、  影だけが揺れる場所だった。

レクン・カムイが言った。

「ここが“月影の底”……   影が月を恋しがり、   月が影を恐れる場所……」

ツキ・メノコは震えながらも進んだ。

■ 月影の底で

月影の底は、  黒い霧が渦巻く不思議な世界だった。

空は逆さまに揺れ、  地面は影でできており、  月の光だけが細い糸のように漂っていた。

その中心に、  月影の盗人ツキカゲ・ホロがいた。

体は影の霧でできており、  その胸には、黒鹿の月影が閉じ込められていた。

ツキ・メノコは叫んだ。

「月影を返して!」

影の盗人は低く笑った。

「月影は……わたしのもの……   光は……まぶしい……   影は……光に怯える……   だから……光を奪う……」

黒鹿は前に出た。

「月影は光を支えるもの。   光を奪えば、影も消える。   おまえは影を守っているつもりで、   影を殺しているのだ」

影の盗人は揺れた。

「……うそだ……   光は……影を消す……   影は……光を恐れる……」

■ 少女の言葉

ツキ・メノコは影の盗人に近づいた。

「影は光があるから生まれるんだよ。   光がなければ、影は形を持てない。   あなたは影を守りたいんでしょう?   なら、光を奪っちゃだめ」

影の盗人は震えた。

「……わたしは……   ただ……   ひとりが……こわかった……   影は……いつもひとり……   光は……みんなに愛される……   影は……忘れられる……」

少女は静かに言った。

「影は忘れられてなんかいないよ。   影があるから、月は美しい。   影があるから、夜は深い。   影は、光の友だよ」

影の盗人は涙のような影をこぼした。

「……友……?」

「そう。   だから、月影を返して。   光と影は、いっしょにあるべきなの」

■ 月影の解放

影の盗人は胸に抱えた月影を見つめ、  ゆっくりと手を開いた。

黒鹿の月影が光を取り戻し、  少女の手の中へ飛び込んだ。

黒鹿は角を掲げ、  月影を受け取った。

その瞬間、  角が白く輝き、  月の光が強くなった。

「……戻った……   わたしの月影が……戻った……!」

月影の底が揺れ、  影の霧が静かに晴れていった。