「アイヌ神話・民話体系」全60話 第5話 海霧を運ぶシャチの精霊https://ganta.sa-suke.com/1005.html

Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話)

第1話 風のカムイが最初に歌った日
第2話 大地を抱くクマのカムイ
第3話 川の女神トゥラノの涙
第4話 
火のカムイと雪のカムイの争い
第5話 海霧を運ぶシャチの精霊
第6話 森の影を食べるフクロウの伝承
第7話 山の心臓が鳴る夜
第8話 雷のカムイが子を授ける話
第9話 霧の中で迷う鹿の魂
第10話 星を拾った少年
第11話 氷の裂け目に住む古い神
第12話 風を縫う少女と草原の歌
第13話 湖の底の鏡の国
第14話 木の根が語る千年前の記憶
第15話 太陽を背負ったカラスの旅

Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)

第16話 最初のアットゥシ織り
第17話 狩人と弓の精霊の契約
第18話 鮭を呼ぶ歌の誕生
第19話 村を救った薬草の物語
第20話 海を渡る影の船
第21話 風の穴に落ちた少年
第22話 火の鳥が落とした赤い羽
第23話 熊送りの儀式が生まれた日
第24話 星を喰べた山の巨人
第25話 霧の森で笑う子どもたち
第26話 夜明けを運ぶ白い狼
第27話 影を縫う蜘蛛の巣
第28話 風の骨を拾う少年
第29話 月影を抱く黒鹿の旅
第30話 海底に沈んだ風の鈴

Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)

第31話 森を歩く影の鹿角
第32話 雪を食べる白い影
第33話 風を忘れた山の梟
第34話 影を渡る黒い舟
第35話 星明かりを飲む黒い鳥
第36話 夜の川を渡る赤い魚
第37話 影を食べる黒い霧
第38話 風の底で眠る青い石
第39話 最後の戦いと雪嵐の夜
第40話 霧の海で歌う青い鯨
第41話 影の森で眠る黒い花
第42話 星の底で笑う赤い面
第43話 風の声を盗む黒い羽
第44話 雪の底で笑う白い面
第45話 夜明けを盗む黒い狼
第46話 影の海で眠る青い面
第47話 風の森で泣く白い鳥
第48話 月の森で歌う黒い鹿
第49話 影の谷で眠る赤い狐
第50話 風の底で歌う白い面

Ⅳ 星・海・影・雪・風 「鳥・鯨・狐・面・鹿」(51〜60話)

第51話 星の森で眠る青い鳥
第52話 海の底で笑う黒い鯨
第53話 影の森で歌う白い狐
第54話 雪の森で眠る黒い面
第55話 風の影で笑う青い狐
第56話 月の底で眠る白い鳥
第57話 影の底で笑う黒い鳥
第58話 風の森で眠る赤い鳥
第59話 星の底で笑う白い狐
第60話 雪の底で歌う黒い鹿
第5話 海霧を運ぶシャチの精霊

 世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、川の女神トゥラノが涙で森を癒したころ。  そのさらに向こう、果てしない海の底には、もうひとつの大きな力が息づいていた。

 レプン・カムイ――海の王にして、シャチの姿をとる精霊である。

 レプン・カムイは巨大で、黒と白の体は海の闇と光を映し、目は深海のように静かだった。  彼は海の生き物たちを守り、潮の流れを整え、嵐の力を抑える役目を持っていた。

 しかし、レプン・カムイにはもうひとつの役目があった。  それは――海霧(ガス)を運ぶことである。

 海霧は、海と陸をつなぐ橋のような存在だった。  海の記憶を陸に運び、陸の匂いを海に返す。  その霧がなければ、海と陸は互いを忘れてしまうといわれていた。

 レプン・カムイは、夜明け前になると海面に浮かび、深い息を吐いた。  その息が白い霧となり、海を覆い、やがて陸へと流れていく。

 だが、ある年の夏、海霧がまったく現れなくなった。

■ 海霧が消えた夏

 海霧が消えると、海鳥たちは道を見失い、漁をする人々は海の気配を読めなくなった。  森の動物たちも、海の匂いが届かないことに不安を覚えた。

 川の女神トゥラノは、海へ向かって声を放った。

 「レプン・カムイよ、どうして海霧を運ばないのです。   海と陸が離れてしまいます」

 しかし、海からは何の返事もなかった。

 そのころ、海の底では異変が起きていた。

 深海の裂け目から黒い潮が湧き出し、海の生き物たちを怯えさせていたのだ。  その黒い潮は、海霧を生む力を奪い、レプン・カムイの体を重くしていた。

 レプン・カムイは苦しんでいた。  海霧を生むための息が、黒い潮に押しつぶされていたのだ。

 「このままでは……海と陸が離れてしまう……   だが、わたしは海を離れられぬ……」

 レプン・カムイは深海でうめいた。

■ 若いシャチの決意

 そのとき、レプン・カムイのもとに一頭の若いシャチが現れた。  名を レタラ・レプン――白い斑がひときわ明るい、勇敢な若者だった。

 「レプン・カムイさま、わたしが海霧を運びます。   あなたの代わりに、海と陸をつなぎます」

 レプン・カムイは首を振った。

 「おまえにはまだ早い。   海霧を運ぶには、海の記憶を背負わねばならぬ。   それは重く、時に命を削る」

 しかし、レタラ・レプンは退かなかった。

 「海が苦しんでいるのに、わたしは何もせずにいられません。   海霧がなければ、海と陸は互いを忘れてしまう。   それだけは、絶対にさせません」

 レプン・カムイは若者の目を見つめ、深く息を吐いた。

 「……ならば行くがよい。   だが、黒い潮には気をつけろ。   あれは海の影。   触れれば心を奪われる」

 レタラ・レプンは力強く頷き、海面へ向かった。

■ 黒い潮との戦い

 海面に近づくほど、黒い潮は濃くなり、海は重く沈んでいった。  レタラ・レプンは必死に泳ぎ、海面へ顔を出した。

 しかし、海霧は生まれなかった。  黒い潮が空気を重くし、霧を押し戻していたのだ。

 「負けない……!」

 レタラ・レプンは深く息を吸い込み、海の記憶を胸に抱いた。  海の匂い、波の音、潮の流れ――それらをすべて体に刻み込んだ。

 そして、力の限り息を吐いた。

 白い霧が生まれた。  しかし、黒い潮がそれを飲み込もうと迫ってきた。

 レタラ・レプンは霧を守るように体を張り、黒い潮に立ち向かった。

 「海と陸を……つなぐんだ……!」

 黒い潮は冷たく、重く、心を蝕むようだった。  レタラ・レプンの体は震え、視界が暗くなった。

 そのとき――

 空から風が吹いた。  レラ・カムイの歌だった。

 「若いシャチよ、わたしが道を開こう。   おまえの霧を、陸へ運ぶ風を吹かせよう」

 風が黒い潮を押し返し、霧を包み込んだ。

 レタラ・レプンは最後の力を振り絞り、霧を海から押し出した。

 霧は風に乗り、白い帯となって陸へ向かった。

■ 海霧の帰還

 森の動物たちは、白い霧が戻ってくるのを見て歓声を上げた。  川の女神トゥラノは霧に触れ、海の匂いを感じて微笑んだ。

 「海は……まだ生きている……」

 霧は森を包み、山を越え、世界に静かな息を吹き込んだ。

 レタラ・レプンは海面に浮かび、疲れ果てていた。  そこへレプン・カムイが現れた。

 「よくやった、若者よ。   おまえは海の記憶を守り、海と陸をつないだ。   

 今日からおまえは、わたしの右腕――   海霧を運ぶ精霊 だ」

 レタラ・レプンは静かに頷いた。  その胸には、海の記憶が深く刻まれていた。

■ その後の世界

 それ以来、海霧は毎朝のように海から立ち上り、陸へと流れるようになった。  海と陸は互いを忘れず、季節の移ろいを共有し続けた。

 そして、海霧が白く輝く朝には、  人々はこう言うようになった。

 「あれは、若いシャチの精霊が海の記憶を運んでいるのだ」

 レプン・カムイとレタラ・レプンは今も海の底で海を守り、  海霧は今日も静かに世界をつないでいる。