| Tweet 「アイヌ神話・民話体系」全60話 第36話 夜の川を渡る赤い魚https://ganta.sa-suke.com/1036.html | |
Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話) 第1話 風のカムイが最初に歌った日 第2話 大地を抱くクマのカムイ 第3話 川の女神トゥラノの涙 第4話 火のカムイと雪のカムイの争い 第5話 海霧を運ぶシャチの精霊 第6話 森の影を食べるフクロウの伝承 第7話 山の心臓が鳴る夜 第8話 雷のカムイが子を授ける話 第9話 霧の中で迷う鹿の魂 第10話 星を拾った少年 第11話 氷の裂け目に住む古い神 第12話 風を縫う少女と草原の歌 第13話 湖の底の鏡の国 第14話 木の根が語る千年前の記憶 第15話 太陽を背負ったカラスの旅 Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)第16話 最初のアットゥシ織り Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)第31話 森を歩く影の鹿角
|
第36話 夜の川を渡る赤い魚
世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、火の鳥が赤い羽を広げ、白い狼が夜明けを運び、黒鹿が月影を抱いて旅をし、星を守る黒い鳥が夜空を巡っていたころ。 その夜、川辺の村に奇妙な噂が広がった。 「夜の川を、赤い魚が渡っていく」 赤い魚は昼には姿を見せず、 夜になると川面に赤い光を落としながら、 静かに上流へ向かって泳いでいくという。 村人たちは不安げに囁いた。 「赤い魚は不吉の印だ」 「川のカムイが怒っているのかもしれない」 「夜に魚が光るなんて、ありえない」 しかし、川の女神トゥラノは静かに言った。 「赤い魚は不吉ではない。 あれは“夜渡りの魚”―― 川の魂を運ぶ者だ。 だが、今年は様子がおかしい。 赤い光が濁っている」 川の魂が濁るということは、 川そのものが弱っているということだった。 ■ 赤い魚を見た少年川辺の村に、 川の声を聞くことができる少年がいた。 名を カワネ・シモ。 川の流れ、川の歌、川の涙を感じ取ることができた。 ある夜、少年は川辺で赤い光を見た。 川面を滑るように、 赤い魚がゆっくりと泳いでいた。 その体は赤く輝き、 まるで火の鳥の羽のように揺れていた。 しかし、魚の光はどこか弱く、 揺らぎ、濁っていた。 少年は川に向かって言った。 「赤い魚……どうしたの?」 そのとき、魚の影が揺れ、 かすかな声が聞こえた。 「……たすけて…… 川の魂が……重い…… わたしは……渡れない……」 少年は息を呑んだ。 「川の魂が……重い……?」 ■ 川の女神の嘆き川の女神トゥラノが水面から姿を現した。 「カワネ・シモよ、 赤い魚の声を聞いたのだな」 少年は頷いた。 「魚が……渡れないって言ってる。 川の魂が重いって……どういうこと?」 トゥラノは静かに言った。 「川には“記憶”がある。 流れた涙、 流れた願い、 流れた悲しみ。 それらが積もれば、川の魂は重くなる」 少年は胸が痛くなった。 「川が……泣いているの?」 「そうだ。 今年は特に、川の悲しみが深い。 赤い魚は川の魂を運ぶ者。 魂が重ければ、魚は渡れぬ」 少年は決意した。 「ぼくが川の魂を軽くする。 赤い魚を渡らせる!」 ■ 川の魂を追う旅トゥラノは少年に言った。 「川の魂は“夜の淵”に沈んでいる。 そこには、川の記憶が集まる。 だが、夜の淵は危険だ。 心が弱れば、川の記憶に飲まれる」 少年は胸を張った。 「ぼくは川を信じてる。 川はぼくの友だ。 だから、飲まれたりしない」 トゥラノは微笑んだ。 「ならば、川の流れが道を示すだろう」 少年は川の流れに身を任せ、 夜の淵へ向かった。 ■ 夜の淵夜の淵は、 川の最も深い場所にある暗い渦だった。 水は黒く、 光は届かず、 川の記憶が渦を巻いていた。 少年は渦の前に立った。 「ここが……夜の淵……」 そのとき、川の記憶が声を上げた。 「……さむい……」 「……くるしい……」 「……わたしは……忘れられた……」 少年は胸が締めつけられた。 「川の記憶が……泣いてる……」 渦が揺れ、 黒い水が少年に襲いかかった。 「……おまえも……沈め…… 川の悲しみを……知れ……」 少年は叫んだ。 「ぼくは沈まない! 川は悲しんでいるけど、 川は優しい! ぼくは川を信じてる!」 その瞬間、 渦が静まり、 黒い水が透明になった。
■ 川の魂の解放渦の中心に、 赤い光が沈んでいた。 それは、 赤い魚が運ぶはずだった“川の魂”だった。 少年は光を抱き上げた。 「大丈夫だよ。 ぼくが君を運ぶ」 光は温かく震え、 少年の胸に溶け込んだ。 川の声が響いた。 「……ありがとう…… おまえの心が…… わたしの魂を軽くした……」 少年は川面へ浮かび上がった。 ■ 赤い魚の渡り川に戻ると、 赤い魚が待っていた。 魚は少年の胸の光を見て言った。 「……それは……川の魂…… わたしは……渡れる……」 少年は魚に光を渡した。 魚の体が赤く輝き、 夜の川を照らしながら泳ぎ始めた。 その光は、 まるで夜明けのように美しかった。 魚は上流へ向かい、 川の魂を運んでいった。 ■ その後の世界赤い魚が渡り終えると、 川は澄み、 流れは軽やかになった。 村人たちは言った。 「赤い魚が川を救ったのだ」 「いや、川の魂を軽くしたのは、あの少年だ」 「夜の川が光るのは、川が息をしている証だ」 カワネ・シモは川に向かって言った。 「これからも、ぼくに川の歌を聞かせてね」 川は優しく流れ、 赤い魚の光は夜の水面に残っていた。 そして、人々はこう言うようになった。 「夜の川を赤く照らす光は、 川の魂を運んだ赤い魚の名残だ」 赤い魚は今日も夜の川を渡り、 川の魂を静かに運んでいる。 |