「アイヌ神話・民話体系」全60話 第52話 海の底で笑う黒い鯨https://ganta.sa-suke.com/1052.html

Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話)

第1話 風のカムイが最初に歌った日
第2話 大地を抱くクマのカムイ
第3話 川の女神トゥラノの涙
第4話 
火のカムイと雪のカムイの争い
第5話 海霧を運ぶシャチの精霊
第6話 森の影を食べるフクロウの伝承
第7話 山の心臓が鳴る夜
第8話 雷のカムイが子を授ける話
第9話 霧の中で迷う鹿の魂
第10話 星を拾った少年
第11話 氷の裂け目に住む古い神
第12話 風を縫う少女と草原の歌
第13話 湖の底の鏡の国
第14話 木の根が語る千年前の記憶
第15話 太陽を背負ったカラスの旅

Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)

第16話 最初のアットゥシ織り
第17話 狩人と弓の精霊の契約
第18話 鮭を呼ぶ歌の誕生
第19話 村を救った薬草の物語
第20話 海を渡る影の船
第21話 風の穴に落ちた少年
第22話 火の鳥が落とした赤い羽
第23話 熊送りの儀式が生まれた日
第24話 星を喰べた山の巨人
第25話 霧の森で笑う子どもたち
第26話 夜明けを運ぶ白い狼
第27話 影を縫う蜘蛛の巣
第28話 風の骨を拾う少年
第29話 月影を抱く黒鹿の旅
第30話 海底に沈んだ風の鈴

Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)

第31話 森を歩く影の鹿角
第32話 雪を食べる白い影
第33話 風を忘れた山の梟
第34話 影を渡る黒い舟
第35話 星明かりを飲む黒い鳥
第36話 夜の川を渡る赤い魚
第37話 影を食べる黒い霧
第38話 風の底で眠る青い石
第39話 最後の戦いと雪嵐の夜
第40話 霧の海で歌う青い鯨
第41話 影の森で眠る黒い花
第42話 星の底で笑う赤い面
第43話 風の声を盗む黒い羽
第44話 雪の底で笑う白い面
第45話 夜明けを盗む黒い狼
第46話 影の海で眠る青い面
第47話 風の森で泣く白い鳥
第48話 月の森で歌う黒い鹿
第49話 影の谷で眠る赤い狐
第50話 風の底で歌う白い面

Ⅳ 星・海・影・雪・風 「鳥・鯨・狐・面・鹿」(51〜60話)

第51話 星の森で眠る青い鳥
第52話 海の底で笑う黒い鯨
第53話 影の森で歌う白い狐
第54話 雪の森で眠る黒い面
第55話 風の影で笑う青い狐
第56話 月の底で眠る白い鳥
第57話 影の底で笑う黒い鳥
第58話 風の森で眠る赤い鳥
第59話 星の底で笑う白い狐
第60話 雪の底で歌う黒い鹿

第52話 海の底で笑う黒い鯨

世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、火の鳥が赤い羽を広げ、白い狼が夜明けを運び、黒鹿が月影を抱いて旅をし、星の森で青い鳥が星の心を空へ返したころ。  その海の最も深い場所――  海の底(レプン・シタ) に、誰も聞いたことのない笑い声が響いた。

「……オォ……オォォ……」

それは鯨の声に似ていたが、  どこか歪み、  どこか冷たく、  海の記憶を震わせるような響きだった。

漁師たちは怯えた。

「海の底で“黒い鯨”が笑っている」  「鯨が笑うと、海が荒れる」  「海の心が乱れている」

その噂は、  海のシャチの精霊 レタラ・レプン の耳にも届いた。

レタラ・レプンは海を潜り、  海底の揺れを読み取った。

「……海の底で“黒い鯨”が目覚めた。   あれは、海の影だ」

■ 海の影を読む少女

海辺の村に、  海の揺れを読むことができる少女がいた。

名を ウミハ・メノコ。  波の歌、潮の涙、海の影を感じ取ることができた。

ある夜、少女は海辺で  奇妙な笑い声を聞いた。

「……オォ……オォォ……」

海が震え、  波が影のように重く揺れていた。

少女は海に手を当てた。

「……海が怖がってる……   海の底で、誰かが笑ってる……   海の心が……泣いてる……」

そのとき、レタラ・レプンが現れた。

「ウミハ・メノコよ、   海の底に“黒い鯨”が眠っている。   おまえの力が必要だ」

少女は頷いた。

「海を救う。   黒い笑い声が、海を傷つけてる」

■ 海の底へ潜る

レタラ・レプンは少女を背に乗せ、  深い海へ潜った。

海は暗く、  光は揺れ、  影が水のように漂っていた。

やがて、海底に巨大な影が見えた。

そこに――  黒い鯨 がいた。

その体は闇のように黒く、  瞳は深海の光を映し、  口元には笑みが浮かんでいた。

鯨は低く笑った。

「……オォ……オォォ……」

その笑いは、  海の記憶を震わせるような冷たい響きだった。

■ 黒い鯨の声

少女は震えながら言った。

「あなたが……海を乱しているの?」

黒い鯨はゆっくりと答えた。

「……わたしは……海の影……   海は深い……   海は重い……   海は……すべてを抱える……   涙も……怒りも……迷いも……   だが……誰も……海の心を見ない……   だから……わたしは生まれた……   海の心を……笑いに変えるために……」

少女は息を呑んだ。

「笑いに……変える……?」

鯨は笑った。

「……笑えば……軽くなる……   笑えば……痛みは消える……   だが……笑いすぎれば……   心は壊れる……   わたしは……壊れた心の影……」

少女は胸が痛くなった。

「海は……そんなに苦しんでいたの……?」

■ 海の心の歪み

レタラ・レプンは静かに言った。

「海は世界の涙を受け止める。   その涙が積もれば、   海は重くなる。   重くなりすぎれば、   海は“笑い”で誤魔化そうとする。   その歪んだ笑いが、黒い鯨を生む」

少女は黒い鯨に近づいた。

「笑ってもいい。   でも、苦しみを隠すための笑いは、   海を傷つけるだけだよ」

黒い鯨は揺れた。

「……隠す……?   わたしは……隠している……?」

■ 海の試練

黒い鯨は少女に近づいた。

「……おまえも……笑っている……   心を隠すために……   痛みを隠すために……   その笑いを……わたしに寄こせ……   わたしは……笑いを喰う……」

少女は後ずさった。

――わたしは笑いで心を隠しているのか。  ――海の痛みを癒せるのか。 ――黒い鯨に飲まれずにいられるのか。

レタラ・レプンが叫んだ。

「心を強く持て!   笑いは影だ!   影は心の揺れを映すだけだ!」

少女は深く息を吸い、  黒い鯨に向かって叫んだ。

「笑ってもいい!   でも、心を隠すための笑いじゃない!   本当の笑いは、心を軽くするんだよ!   海は隠さなくていい!   海は世界を抱いてるんだもの!」

黒い鯨は震えた。

「……本当の……笑い……?」

■ 黒い鯨の浄化

少女の言葉が海底に響き、  黒い鯨は光を帯び始めた。

「……あたたかい……   これは……海の心……?」

レタラ・レプンは言った。

「影は光を恐れぬ。   光があるから影は生まれる。   おまえは海の影。   影を手放せば、海は自由になる」

黒い鯨は大きく息を吐き、  その笑いは光に変わり、  海の底へ溶けていった。

海は静かに揺れ、  深い青を取り戻した。

■ 海の帰還

少女が海面へ戻ると、  波は軽く、  潮は澄み、  海は静かに歌っていた。

レタラ・レプンは言った。

「おまえの心が、海の影を癒した。   海は笑ってもよい。   だが、心を隠すための笑いではなく、   心を開くための笑いだ」

少女は海に向かって言った。

「これからも、海の歌を聞かせてね」

海は優しく波を寄せ、  少女の足元を濡らした。

■ その後の世界

それ以来、  海がひときわ静かに笑うような夜には、  人々はこう言うようになった。

「あれは、海の底で笑っていた黒い鯨が  本当の笑いを海に返した証だ」

海は今日も静かに揺れ、  世界の涙と笑いを抱きしめている。