| Tweet 「アイヌ神話・民話体系」全60話 第52話 海の底で笑う黒い鯨https://ganta.sa-suke.com/1052.html | |
Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話) 第1話 風のカムイが最初に歌った日 第2話 大地を抱くクマのカムイ 第3話 川の女神トゥラノの涙 第4話 火のカムイと雪のカムイの争い 第5話 海霧を運ぶシャチの精霊 第6話 森の影を食べるフクロウの伝承 第7話 山の心臓が鳴る夜 第8話 雷のカムイが子を授ける話 第9話 霧の中で迷う鹿の魂 第10話 星を拾った少年 第11話 氷の裂け目に住む古い神 第12話 風を縫う少女と草原の歌 第13話 湖の底の鏡の国 第14話 木の根が語る千年前の記憶 第15話 太陽を背負ったカラスの旅 Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)第16話 最初のアットゥシ織り Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)第31話 森を歩く影の鹿角
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第52話 海の底で笑う黒い鯨 世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守り、火の鳥が赤い羽を広げ、白い狼が夜明けを運び、黒鹿が月影を抱いて旅をし、星の森で青い鳥が星の心を空へ返したころ。 その海の最も深い場所―― 海の底(レプン・シタ) に、誰も聞いたことのない笑い声が響いた。 「……オォ……オォォ……」 それは鯨の声に似ていたが、 どこか歪み、 どこか冷たく、 海の記憶を震わせるような響きだった。 漁師たちは怯えた。 「海の底で“黒い鯨”が笑っている」 「鯨が笑うと、海が荒れる」 「海の心が乱れている」 その噂は、 海のシャチの精霊 レタラ・レプン の耳にも届いた。 レタラ・レプンは海を潜り、 海底の揺れを読み取った。 「……海の底で“黒い鯨”が目覚めた。 あれは、海の影だ」 ■ 海の影を読む少女海辺の村に、 海の揺れを読むことができる少女がいた。 名を ウミハ・メノコ。 波の歌、潮の涙、海の影を感じ取ることができた。 ある夜、少女は海辺で 奇妙な笑い声を聞いた。 「……オォ……オォォ……」 海が震え、 波が影のように重く揺れていた。 少女は海に手を当てた。 「……海が怖がってる…… 海の底で、誰かが笑ってる…… 海の心が……泣いてる……」 そのとき、レタラ・レプンが現れた。 「ウミハ・メノコよ、 海の底に“黒い鯨”が眠っている。 おまえの力が必要だ」 少女は頷いた。 「海を救う。 黒い笑い声が、海を傷つけてる」 ■ 海の底へ潜るレタラ・レプンは少女を背に乗せ、 深い海へ潜った。 海は暗く、 光は揺れ、 影が水のように漂っていた。 やがて、海底に巨大な影が見えた。 そこに―― 黒い鯨 がいた。 その体は闇のように黒く、 瞳は深海の光を映し、 口元には笑みが浮かんでいた。 鯨は低く笑った。 「……オォ……オォォ……」 その笑いは、 海の記憶を震わせるような冷たい響きだった。 ■ 黒い鯨の声少女は震えながら言った。 「あなたが……海を乱しているの?」 黒い鯨はゆっくりと答えた。 「……わたしは……海の影…… 海は深い…… 海は重い…… 海は……すべてを抱える…… 涙も……怒りも……迷いも…… だが……誰も……海の心を見ない…… だから……わたしは生まれた…… 海の心を……笑いに変えるために……」 少女は息を呑んだ。 「笑いに……変える……?」 鯨は笑った。 「……笑えば……軽くなる…… 笑えば……痛みは消える…… だが……笑いすぎれば…… 心は壊れる…… わたしは……壊れた心の影……」 少女は胸が痛くなった。 「海は……そんなに苦しんでいたの……?」 ■ 海の心の歪みレタラ・レプンは静かに言った。 「海は世界の涙を受け止める。 その涙が積もれば、 海は重くなる。 重くなりすぎれば、 海は“笑い”で誤魔化そうとする。 その歪んだ笑いが、黒い鯨を生む」 少女は黒い鯨に近づいた。 「笑ってもいい。 でも、苦しみを隠すための笑いは、 海を傷つけるだけだよ」 黒い鯨は揺れた。 「……隠す……? わたしは……隠している……?」 ■ 海の試練黒い鯨は少女に近づいた。 「……おまえも……笑っている…… 心を隠すために…… 痛みを隠すために…… その笑いを……わたしに寄こせ…… わたしは……笑いを喰う……」 少女は後ずさった。 ――わたしは笑いで心を隠しているのか。 ――海の痛みを癒せるのか。 ――黒い鯨に飲まれずにいられるのか。 レタラ・レプンが叫んだ。 「心を強く持て! 笑いは影だ! 影は心の揺れを映すだけだ!」 少女は深く息を吸い、 黒い鯨に向かって叫んだ。 「笑ってもいい! でも、心を隠すための笑いじゃない! 本当の笑いは、心を軽くするんだよ! 海は隠さなくていい! 海は世界を抱いてるんだもの!」 黒い鯨は震えた。 「……本当の……笑い……?」 ■ 黒い鯨の浄化少女の言葉が海底に響き、 黒い鯨は光を帯び始めた。 「……あたたかい…… これは……海の心……?」 レタラ・レプンは言った。 「影は光を恐れぬ。 光があるから影は生まれる。 おまえは海の影。 影を手放せば、海は自由になる」 黒い鯨は大きく息を吐き、 その笑いは光に変わり、 海の底へ溶けていった。 海は静かに揺れ、 深い青を取り戻した。 ■ 海の帰還少女が海面へ戻ると、 波は軽く、 潮は澄み、 海は静かに歌っていた。 レタラ・レプンは言った。 「おまえの心が、海の影を癒した。 海は笑ってもよい。 だが、心を隠すための笑いではなく、 心を開くための笑いだ」 少女は海に向かって言った。 「これからも、海の歌を聞かせてね」 海は優しく波を寄せ、 少女の足元を濡らした。 ■ その後の世界それ以来、 海がひときわ静かに笑うような夜には、 人々はこう言うようになった。 「あれは、海の底で笑っていた黒い鯨が 本当の笑いを海に返した証だ」 海は今日も静かに揺れ、 世界の涙と笑いを抱きしめている。 |