「アイヌ神話・民話体系」全60話  第3話 川の女神トゥラノの涙https://ganta.sa-suke.com/1003.html

Ⅰ 自然とカムイの章(1〜15話)

第1話 風のカムイが最初に歌った日
第2話 大地を抱くクマのカムイ
第3話 川の女神トゥラノの涙
第4話 
火のカムイと雪のカムイの争い
第5話 海霧を運ぶシャチの精霊
第6話 森の影を食べるフクロウの伝承
第7話 山の心臓が鳴る夜
第8話 雷のカムイが子を授ける話
第9話 霧の中で迷う鹿の魂
第10話 星を拾った少年
第11話 氷の裂け目に住む古い神
第12話 風を縫う少女と草原の歌
第13話 湖の底の鏡の国
第14話 木の根が語る千年前の記憶
第15話 太陽を背負ったカラスの旅

Ⅱ 生活と知恵の章(16〜30話)

第16話 最初のアットゥシ織り
第17話 狩人と弓の精霊の契約
第18話 鮭を呼ぶ歌の誕生
第19話 村を救った薬草の物語
第20話 海を渡る影の船
第21話 風の穴に落ちた少年
第22話 火の鳥が落とした赤い羽
第23話 熊送りの儀式が生まれた日
第24話 星を喰べた山の巨人
第25話 霧の森で笑う子どもたち
第26話 夜明けを運ぶ白い狼
第27話 影を縫う蜘蛛の巣
第28話 風の骨を拾う少年
第29話 月影を抱く黒鹿の旅
第30話 海底に沈んだ風の鈴

Ⅲ 戦いと民族の記憶の章(31〜50話)

第31話 森を歩く影の鹿角
第32話 雪を食べる白い影
第33話 風を忘れた山の梟
第34話 影を渡る黒い舟
第35話 星明かりを飲む黒い鳥
第36話 夜の川を渡る赤い魚
第37話 影を食べる黒い霧
第38話 風の底で眠る青い石
第39話 最後の戦いと雪嵐の夜
第40話 霧の海で歌う青い鯨
第41話 影の森で眠る黒い花
第42話 星の底で笑う赤い面
第43話 風の声を盗む黒い羽
第44話 雪の底で笑う白い面
第45話 夜明けを盗む黒い狼
第46話 影の海で眠る青い面
第47話 風の森で泣く白い鳥
第48話 月の森で歌う黒い鹿
第49話 影の谷で眠る赤い狐
第50話 風の底で歌う白い面

Ⅳ 星・海・影・雪・風 「鳥・鯨・狐・面・鹿」(51〜60話)

第51話 星の森で眠る青い鳥
第52話 海の底で笑う黒い鯨
第53話 影の森で歌う白い狐
第54話 雪の森で眠る黒い面
第55話 風の影で笑う青い狐
第56話 月の底で眠る白い鳥
第57話 影の底で笑う黒い鳥
第58話 風の森で眠る赤い鳥
第59話 星の底で笑う白い狐
第60話 雪の底で歌う黒い鹿
第3話 川の女神トゥラノの涙

 世界がまだ若く、風のカムイが歌い、大地のクマのカムイが眠りを守っていたころ。森と山のあいだを縫うようにして、一筋の川が流れていた。その川は、まだ名を持たず、ただ静かに大地を潤すだけの存在だった。

 しかし、その川の奥深くには、ひとりの美しいカムイが住んでいた。  

 名を トゥラノ――川の女神である。

 トゥラノは、透明な水の体を持ち、髪は流れそのもののように揺れ、声は水音のように澄んでいた。彼女は川の流れを整え、森の動物たちに水を与え、季節の移ろいに合わせて川の表情を変える役目を担っていた。

 トゥラノは優しい女神だったが、同時にとても繊細だった。  川の流れが乱れれば心も乱れ、森が荒れれば胸を痛め、動物たちが苦しめば涙を流した。

 ある春の終わり、森に異変が起きた。  雪解けの水が例年よりも多く、山の上から大量の水が流れ込んできたのだ。

 風のカムイ、レラ・カムイが若さゆえに春の歌を強く歌いすぎたせいで、雪が一気に溶けてしまったのである。

 川は急に水かさを増し、流れは荒れ、森の動物たちは川辺に近づけなくなった。

 トゥラノは必死に流れを抑えようとしたが、山から押し寄せる水は止まらなかった。

 「どうして……どうしてこんなに急ぐのですか。   川はゆっくりと季節を運ぶものなのに……」

 トゥラノは苦しげに呟いた。

 そのとき、川辺に一匹の小さなエゾシカが現れた。  まだ角も生えそろわない若い鹿で、名を ユク・ポロ といった。

 「トゥラノさま、森の仲間たちが困っています。   川が荒れて、渡ることができません。   どうか、どうか助けてください」

 トゥラノは胸を痛めた。  しかし、彼女の力だけでは、山からの水を止めることはできなかった。

 「わたしも、どうすればよいのかわからないのです。   このままでは川は暴れ、森は傷ついてしまう……」

 ユク・ポロはしばらく考え、言った。

 「ならば、山のカムイにお願いしましょう。   キムン・カムイなら、きっと力を貸してくれます」

 トゥラノは首を振った。

 「キムン・カムイは大地の鼓動を抱いて眠っています。   そう簡単には目を覚ましません」

 ユク・ポロはそれでも諦めなかった。

 「では、風のカムイにお願いしましょう。   レラ・カムイなら、雪を溶かした歌を弱めてくれるかもしれません」

 トゥラノは少しだけ希望を見た。

 「……そうですね。   レラ・カムイなら、わたしの声も届くかもしれません」

 こうして、トゥラノとユク・ポロは風のカムイを探す旅に出た。

 レラ・カムイは、森の上空を自由に駆け巡っていた。  彼の歌は春を呼び、草木を揺らし、雲を運んでいた。

 トゥラノは川の水をまとい、風の中に声を放った。

 「レラ・カムイ、どうか姿を見せてください。   あなたの歌が、森を苦しめています」

 風が一瞬止まり、レラ・カムイが姿を現した。

 「トゥラノよ、どうしたのだ。   わたしの歌が森を喜ばせていると思っていたが……」

 トゥラノは涙をこぼした。  その涙は風に乗り、光を帯びてきらめいた。

 「あなたの歌は美しい。   けれど、強すぎるのです。   雪が一度に溶け、川が暴れ、森が傷ついています」

 レラ・カムイは驚き、そして深く反省した。

 「わたしは……まだ力の加減がわからないのだ。   すまなかった、トゥラノ。   すぐに歌を弱めよう」

 レラ・カムイが優しい歌を吹くと、山の雪解けはゆっくりになり、川の流れも落ち着き始めた。

 しかし、川はまだ荒れていた。  山からの水が多すぎて、すぐには収まらなかったのだ。

 トゥラノは川に戻り、必死に流れを整えようとした。  だが、力が足りなかった。

 そのとき、ユク・ポロが叫んだ。

 「トゥラノさま、あなたの涙を川に流してください!   あなたの涙には、川を鎮める力があると聞いたことがあります!」

 トゥラノは驚いた。

 「わたしの涙に……そんな力が?」

 ユク・ポロは頷いた。

 「あなたは川そのもの。   あなたの涙は、川の心そのものです。   きっと流れを癒してくれます」

 トゥラノは静かに目を閉じ、胸に手を当てた。  そして、川の痛みを感じ、森の苦しみを感じ、動物たちの声を聞いた。

 その瞬間、彼女の頬を一筋の涙が伝った。

 涙は川に落ち、光を放ちながら広がっていった。  すると、荒れていた川の流れがゆっくりと静まり、濁っていた水が澄み始めた。

 川は深く息をし、森に優しい水音を響かせた。

 トゥラノの涙は、川の心を癒したのだ。

 森の動物たちは歓声を上げた。  ユク・ポロは跳ね回り、鳥たちは歌い、木々は風に揺れて喜んだ。

 レラ・カムイも空から見守りながら言った。

 「トゥラノよ、あなたの涙は世界を救った。   わたしもこれからは、歌の強さを気をつけよう」

 トゥラノは微笑んだ。

 「わたしも、もっと強くなります。   川はただ流れるだけではなく、森を守る力にもなれるのですから」

 その日から、川は「トゥラノの涙の川」と呼ばれるようになった。  春になると川面がきらめくのは、トゥラノの涙が今も流れに宿っているからだと言われている。

 そして、川の女神トゥラノは、森と動物たちを守る優しい母として、今も静かに流れ続けている。